佐藤守弘
40年前、大学受験に予想通り失敗した私は、当時は大手の予備校では唯一京都にあった堀川丸太町の駿台予備校・京都校に通うことにした。とはいえ、ちゃんとは予備校にもいかず、今はもうない出町の喫茶店、ほんやら洞の二階に居座って、受験勉強をしたり、そこの書棚にあった左翼系の本を読んだりして鬱屈しながらも楽しい浪人生活を送っていたのが実情ではあったが(この頃のことは甲斐扶佐義編著『追憶のほんやら洞』(風媒社、2016)に「ほんやら洞の二階の空気」(pp. 138-139)という小文に書いたことがある)。ほんやら洞が予備校みたいなものだったとはいえ、正式に在籍していたのは駿台だったから、高校卒業と同時に喜んで原付免許を取って、ホンダ・タクト——本当に欲しかったのはヴェスパだったが——で堀川丸太町にも行っていた。ただ、私がいた私大コースは、今も堂々と堀川に面して建っている本校からちょっと離れた、竹屋町通に面した小ぶりな別館にあった(今では駿台個別教育センターというのになっているようだ)。その屋上から真南に二条城が見えた。
実際、それくらいしか二条城の記憶というのはない。浪人時代の思い出を辿ってみたのは、その辺に住んでいない限り、若い者が行くような場所ではないということを伝えたかったからだ。最近は京都市立芸大の@KCUAは移転してしまったものの、写真の書店/ギャラリー、PURPLEなどもできたし、三条会商店街も最近にぎやかなので、行く機会も増えたけれど、二条城の辺りというのは、町外れというのは言い過ぎにしても、基本的にはわざわざ行くところではない、生活の場という認識であった。
本稿では、そのような二条城周辺地域という場所の特質を探るために、京都市歴史資料館の情報検索システム、フィールド・ミュージアム京都や、国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースなど、インターネットでアクセスできるデジタル・アーカイヴを利用して考えていきたい。
都の果ての二条城
中国の王城に倣った計画都市・平安京は、いわば机の上で書いた図面を、地勢の状態を考えずにえいやっと京都盆地に載せてみたという感じでできた。モデルとした城市へのオマージュとして、左京に「洛陽」、右京に「長安」という仇名を付けたはいいが、実際のところ右京は湿地が多く、住みにくい場所であったので、都の中心は次第に左京に寄っていき、「洛中」、「上洛」など、「洛陽」にちなんだ名前だけが現在も残り、「長安」地域は鄙びた農村に変わっていくというのは、京都の歴史ではよく知られていたことである。フィールド・ミュージアム京都の「都市のかたちの変遷」を見れば、「京」という街が歴史によって、どのようにかたちを変えてきたのかがよく分かる。
大阪落語の古典、「愛宕山」では、室町の旦那が舞妓・芸妓、幇間を連れて、祇園から愛宕山に向かう道中が以下のように語られる。
祇園町を出て鴨川を渡り西へ西へ、堀川も打ち過ぎまして二条のお城を後目(しりめ)に殺し、ドンドンドンドン出てまいりますといぅと野辺へかかってまいります。何しろ春先でございます、空にはヒバリがチュ~チュ~とさえずっていよぉか、野には陽炎が燃えていよぉかといぅ。
遠山に霞がたなびぃてレンゲ・タンポポの花盛り。麦が青々と伸びた中を菜種の花が彩っていよぉといぅ本陽気。その中をやかましゅ~言ぅてやって来る、その道中の陽ぉ気なこと……♪
(【上方落語メモ第1集】その十四)
東京の八代目桂文楽(1892-1971)の口演では、旦那の口調からこの咄の舞台を明治初年に設定しているようだが、その頃でも二条城を西に行くと、のどかな田園風景が広がっていた。陸軍測量部が作成した2万分の1の仮製地形図(1889)を見ると、「二条離宮」の西に広大な田畑が広がっているのがよく分かる。二条城が築城された近世初期にはなおさらであっただろう。二条城とは、都市の境界の外から都市を見守る/監視するかのように建てられた城であるのかもしれない。
いくつもの二条城
歴史を遡ると、「二条城」と認識されていた建造物が一つではなかったということが知られている。ここからは、街に建てられた碑を、フィールド・ミュージアム京都の「いしぶみデータベース」を参照しながら、その歴史をひもといていきたい。一番古いものとしては、①室町幕府13代将軍・足利義輝(1536-1565)が、管領・斯波氏の屋敷、武衛陣——《洛中洛外図屏風》にも描かれる——の跡地に建てた「二条御所」で、下立売室町、現在の平安女学院京都キャンパスの近くにあったという(碑:斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址)。その後、その屋敷の場所に織田信長(1534-1582)が屋敷を造営し、15代将軍足利義昭(1537-1597)の御所とされた。この2つの二条城は同じ場所にあったので、ここでは1つと数えてもいいだろう(碑:旧二条城跡)。ここの石垣は、京都市営地下鉄烏丸線の工事の際に発掘され、現在は、京都御苑内と(現在の)二条城内に移築されている。
次に建てられたのが、②これも信長によるもので、後に誠仁親王(1552-1586)に献上された「二条新御所」である(碑:二条殿阯)。これは両替町御池にあり、もともとは二条良基(1320~88)の屋敷があったところで、そこから「二条」の名前は受け継いだようだ。ちなみにこの邸宅には龍躍池と名付けられた池があり、それが後にその地に建った龍池小学校(現在は京都国際マンガミュージアム)の名前がここから取られ、また御池通の名前の由来となったという説もある。ここは、本能寺の変の際、信長の嫡子、織田信忠(1557-1582)が最後に籠城して自刃したことで有名である。
そして3つ目の二条城は、③豊臣秀吉(1537-1598)によるもので、押小路小川にかつてあった妙顕寺という法華宗の寺を移転させて、1583年に築いたことから「妙顕寺城」とも言われる(碑:豊臣秀吉妙顕寺城跡)。秀吉はここを京都経営の拠点としたものの、1887年に聚楽第が完成し、この城は機能を終えたようである。そして、その後、徳川家康が1601年に築いたのが、現代に遺る④二条城である。
この4つの「二条城」を、応仁から天正にかけて——義輝の「二条城」があった頃——の地図上にマッピングしてみた(参考:京都の二条城はいくつもあったってどういうこと?)。足利の終わりから織田、豊臣、そして徳川、すなわち中世の終わりから近世のはじめにかけての権力の地勢学が伺い知れるだろう。
ちなみに面白いのが、現在の町名に歴史の痕跡が見られるということだ。①の二条城があった場所は、前身の斯波氏邸から「武衛陣町」、②はぐっと遡って「二条殿町」、③はちょっとひねって「古城町」、④はそのまま「二条城町」と現在でも呼ばれている。京都の碁盤の目地域では、住所を示すのにたいてい町名は使われず、座標的な通り名システムを利用するので、町名は、その町内や周辺に住んでいない限りあまり認識されることがない訳で、あまり使われないからこそ、歴史の古層が町名に遺っていると考えることもできるのではないか(京都市では、法律に定められている住居表示を採用していないということもあるだろうが)。
京の中心としての二条城
では江戸時代、天保頃の二条城を描いた地図を見てみよう。ここで注目したいのは、二条城の周辺である。二条城の北にあるのは、京都所司代の屋敷(碑:京都所司代跡/所司代屋敷址)であり、東西に堀川屋敷と千本屋敷を従えた広大な——この地図で見る限り、面積では二条城に引けを取らない——敷地を有しているのが分かる。言うまでもなく、京都所司代は、江戸幕府の出先機関として、朝廷/公家、寺社から西国大名の監視を司る重要な役割を果たしていた。その配下には、民政を司る京都東町奉行(碑:東町奉行所跡)と西町奉行(碑:西町奉行所跡)——地図には「東御役所」、「西御役所」と見える——と朝廷/公家、寺社を管轄する京都代官——地図には、代々代官を務めた小堀家から「小堀御役宅」とある——を従えていた。ほかにさまざまな組屋敷(与力、同心らに与えられていた屋敷)など、この辺りに明らかに幕府権力が集中していたことが分かる。
そのことを考えると、近世京都の権力は、一見は天皇が住み公家屋敷で囲まれた京都御所(土御門内裏)にも見えるが、実質上は二条城とその周辺にあったと考えていいだろう。所司代、奉行所、代官所、そしてそれらに取り囲まれ威容を示す二条城は、まさに権力が可視化されて現れたものと考えることができる。
幕末の動乱の中、京都が地政学的に重要になっていくにつれ、幕府の機関としての二条城の役割はいや増す。14代将軍・徳川家茂(1846-1866)は、229年ぶりの上洛から三度にわたって京都を訪れ、二条城を拠点とするし、15代・慶喜(1837-1813)に至っては、その短い在位期間(1867-1868)のすべてを二条城において過ごすこととなる。
慶喜によって、まさにこの二条城で発せられた大政奉還(1867)から、新政府の成立にかけて、京都の政治体制も変わっていく。京都の町奉行の権限を受け継いで1867年に成立した京都市中取締所が翌年に京都裁判所——後の司法機関ではなく、行政機関——と名前を変え、それはすぐに京都府となる。その京都府の庁舎が置かれたのは、やはり二条城であった(「京都府庁警鐘楼」〔メルマガコラム 写真資料から[総合資料館]〕)。府庁が現在の釜座通に移ったのは1885年のことであるから、それまでは二条城は旧幕時代から引き続き、権力の中心であったのだ。戦後、7期28年(1950-1978)の長きにわたり知事を務めた蜷川虎三(1897-1981)のもとの京都府庁が「釜座幕府」と呼ばれた——そう呼ばれなくなってずいぶん経つが——のは、徳川時代の歴史を踏襲しているかのようで味わい深い。